小松市の地質 NGG002

資料

北陸地域は一般にグリーンタフ地域と呼ばれる特徴のある岩石が多く分布している。日本が列島となる前に多島海状態になった。そのころ海底火山の噴火が盛んに起こり,噴出した火山灰が熱水で変質を受けた。黒雲母・カクセン石・輝石などの有色鉱物が粘土鉱物の一種の緑泥石という緑色の鉱物に変化した。今回,見学対象となった観音下石,尾小屋鉱山,遊泉寺銅山について述べる。

(1)地質概略
小松市は金沢市の南西,手取川の左岸にあり,市内には,粟津温泉,安宅関址,小松空港や建設機械のコマツがある。小松市の東部と南部の山地には,流紋岩質火砕岩(凝灰岩類)が広く分布し,流紋岩質溶岩を伴っている。安山岩質溶岩の岩脈もところどころにみられる。これらは中新世前期(2,300 万年前~ 1,600 万年前)の地層といわれる(絈野,1992)。流紋岩質火砕岩は,流紋岩質の角礫凝灰岩,軽石凝灰岩,細粒凝灰岩などから成る厚い地層で,ところどころで凝灰質砂岩・泥岩をはさむ(絈野,1993)。流紋岩質火砕岩は,全体的に緑色を帯びるものが多く,角礫凝灰岩・火山礫凝灰岩および軽石凝灰岩である。角礫の大きさは直径 5 mm ~ 20 mm くらいまでであり,場所によりかなり均質な凝灰岩をはさみ,極めて多孔質な外観を示す凝灰岩も分布する。地層名は下部中新統赤穂(あかほ)(たに)層で,白色軽石や緑灰色泥岩の亜角礫が散在する堅硬な含角礫緑灰色凝灰岩を主体とする。下部には暗灰色凝灰角礫岩および有色鉱物が散在する緑灰~灰白色泥質凝灰岩がレンズ状に,一方上部には淘汰不良の亜角礫が散在する凝灰岩がそれぞれ挟在する。砂質となる層準は緑灰色,淡灰色,黄褐色,赤褐色あるいは黄白色などさまざまな色調を呈する(富井ほか,2002)。

図1 小松市地域地質図     産総研地質調査総合センター地質図に加筆

(2)観音下石かながそいし
流紋岩質火砕岩は地域ごとに特有の岩相を示す。石川県加賀地方では小松市観音下町の「観音下石(商品名は日華石)」と滝ケ原町の「滝ケ原石」が有名で,前者は黄褐色,後者は淡緑色を特徴とする。観音下石切り場(図2)は大正初期から始まり,そこで産する観音下石(図3)は特徴的な黄色を呈し,火に強く,湿気にも強くカビが生えにくい特徴が評価され,国会議事堂や甲子園ホテルなど,全国の近代建築に利用されている。小松市内各所でも多く見られる石材で、石蔵をはじめとして石塀や門、庭の石造彫刻物などに使用されている(樫田,2019)。ただ,大型部材としての強度や耐久性はあまりなく,長く大きいものは採り難く,ブロックや化粧板石に主に使われる。滝ケ原石は典型的な火山礫凝灰岩で硬く丈夫い。その本山丁場は現在も掘削が行われている。グリーンタフの代表的な石材としては,大谷石,十和田石,伊豆石(伊豆青石・伊豆若草石),笏谷石がある。

図2 観音下石切り場
図3 観音下石

(3)()小屋(ごや)鉱山
尾小屋では江戸時代初期に金の採掘を目的に鉱山がつくられた。採掘と閉山を繰り返したようであるが江戸中期には地元の村民が副業として採掘する程度の規模で,徐々に衰退していった。明治になると1878年に尾小屋の「松ヶ溝」で橘佐平によって銅鉱の露頭が偶然発見され,1880年に元士族吉田八百など6人が採掘を開始した。1881年に加賀藩家老であった横山家13代横山隆平が「隆宝館・尾小屋鉱山」を創業して鉱山の経営にあたった。1887年には豊富で良質な鉱脈を発見する。1900年代初期には隆盛を極めたが第一次大戦後の不況により経営が低迷し,好転した時期もあったが1962年閉山した。鉱床はグリーンタフ中に胚胎された浅熱水性裂力充填鉱脈(裂罅充填鉱床)である(松海,1967)。鉱床は互いに平行ないし雁行状に配列し多くは細脈である。主として銅,鉛,亜鉛,硫化鉄鉱(図5)でわずかに金銀を含む。一部の坑道跡(第一隧道)はマインロード(図4)として見学が可能である。2022年10月現在ではコースの1/3程度しか通ることができず鉱脈の様子は観察できなかった。旧尾小屋鉱山第3トンネル内には極低レベル放射能測定を目的と実験施設が置かれている(山西ほか,2001)。

図4 マインロード
図5 硫化鉄鉱
図6 尾小屋鉱山鉱床断面図

(4)遊泉寺銅山
遊泉寺銅山は江戸時代後期に創立され,明治になって1902年に竹内明太郎が本格的に経営にあたる。大正初期には純銅を生産する鉱山として盛況を極めた。その後,鉱脈の不足や第一次世界大戦後の不況などのため1920年に閉山した(石川県電気工事工業組合こうほう,2021)。現在は当時の資料を展示する里山みらい館や,巨大煙突・竪坑跡・小型真吹法溶鉱炉跡(図7)などの遺構が残る。採掘された鉱石は,黄銅鉱・黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・斑銅鉱などである。閉山後は,銅山経営で得られた技術や施設・物資および人員を受け継ぎ,1921年㈱小松製作所がつくられた。現在は,建設産業機械総合メーカー「コマツ」として名を馳せている。

図7 小型真吹法溶鉱炉跡
図8 碧玉と勾玉(小松市埋蔵文化センター)

(5)碧玉
尾小屋鉱山や遊泉寺銅山は水晶やメノウといった鉱物の産地としても有名であった。また,弥生時代にはここで採取された碧玉が加工され日本各地へ送られたことが知られている(樫田,2017)。「碧玉」は,翡翠の勾玉(まがたま)(ともえ)の一片に似た形で,穴にひもを通してくびなどに掛けた装身具)とともに連ねる(くだ)(たま)の材料として求められた宝石である(図8)。当時の良質の碧玉の産出地は小松を含めて全国で4カ所にかぎられ,それらの中でも小松の碧玉はきめ細かさと埋蔵量で重用された。小松市西部の那谷・菩提・滝ヶ原で採取された碧玉は滋賀県東近江市(旧八日市)で玉として加工されたのちに日本海を通って九州をはじめとする遠隔地へ送られていった(樫田,2017)。本地域のほぼ全域にわたって前期中新世の赤穂谷層(冨井ほか,2002)が分布し,黒曜岩や碧玉の貫入が一部で認められる(塚脇ほか,2021)。
(6)九谷焼
陶石は陶磁器原料として利用される主に石英と白雲母(絹雲母)の細粒集合からなる。日本では、新第三紀中新世以後の浅所での熱水変質作用の産物として、多くは流紋岩,デイサイトなど酸性火山岩から生成したものである。陶磁器原料、耐火材などとして採掘されている。九谷焼は、江戸前期に加賀市の旧九谷村で最初の磁器窯として成立した。江戸後期に小松市花坂町で発見された良質の陶石が発見され,多くの窯がつくられた。花坂のものは花坂陶石と呼ばれ,比較的鉄分が多く,焼くと青みがかった色になるのが特徴である。粘りがあるので手仕事に向いており,ろくろで挽きやすいと言われる。この陶石も,流紋岩が熱水作用によって変質したものである(杉浦,1983・樫田,こまつの石文化)。

文献
長 昭雄(2018)小松市の文化と産業を支えた凝灰岩とその帯磁率)GSJ 地質ニュース Vol. 7 No. 2
石川県電気工事工業組合こうほう2021 153表紙
樫田 誠 こまつの石文化~時を超えてつながる石物語~. 10p.
樫田 誠(2019)石川県小松市域の凝灰岩石切り場(in 産業発展と石切り場 116-127),戒光祥出版. 
絈野義夫(1992)新版・石川県地質図(縮尺 10 万分の 1).石川県
絈野義夫(1993)石川県地質誌.絈野義夫 – 石川県・北陸地質研究所, 321p.
松海鉄夫(1967)尾小屋鉱山. 日本鉱業会誌,83(956)1655-1657.
松浦信臣(1993)加賀の地質見学. 石川の自然17,26-27.
杉浦精治(1983)石川県下の粘土鉱物事情. 粘土科学,23(4),136-139.
塚脇真二ほか(2021) 石川県小松市滝ヶ原碧玉原産地遺跡周辺地域の地質.日本海域研究52(1-11).
富井康博ほか(2002)石川県辰口町~小松市北部地域における地質学的研究.日本海域研究33,1-21.
山西弘城ほか(2001)尾小屋トンネルにおける宇宙線強度. RADIOISOTOPES,50,419-423.
保田 虔(1957)尾小屋鉱山の採鉱法. 日本鉱業会誌,73(832),683-685.

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