ファーブルとパスツールの出会い

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ファーブル Jean-Henri Casimir Fabre

ファーブルは1823年,南フランスのアヴェロン県にあるサン・レオン村に生まれました。3歳のとき山村のマラヴァルにある祖父母の元に預けられ,自然豊かな環境で育ちました。7歳で両親と一緒の生活に戻りましたが,父の家業の失敗が続き,14歳で学校を中退,15歳で一家は離散状態となり,ファーブルは肉体労働を強いられました。17歳で師範学校に入学。その後,カルパントラで数学と物理学の教師になり,物理学,化学の普及書(自分で教科書を作るといった新しい教育法)をつくりました。21歳で同僚であった2歳年上のマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと両親の強い反対を押し切って結婚しました。その後コルシカ島の大学に進み数学を研究しながら,昆虫学(昆虫の行動学,虫の習性の研究)に傾倒していきました。ファーブルの研究の特徴は昆虫の行動の研究に実験的手法を持ち込んだ点です。一方,ファーブルは,エラズマス・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの祖父)のいう進化論には強く批判しています。

アヴィニョンに転居後,医者で昆虫学者レオン・デュフール,種苗会社のテオドール・ドゥラクール,国立自然史博物館の植物誌学者ベルナール・ヴェルロなど多くの友人に恵まれます。ファーブルの業績を知る文部大臣デュルイが訪れ,レジオンドヌ-ル勲章が授与され,ナポレオン三世にも接見しました。大臣の依頼に基づき誰でも受講できる「夜間学級」を担当しましたが,教育の民主化は猛烈な反対に遭います。文部大臣の辞職,そして1870年に勃発した普仏戦争でナポレオン三世はプロイセン軍の捕虜となり,のちイギリスに亡命します。ファーブルは,修道女に任されていた女子教育の時代に,花も受精することを教えたことなどから教会勢力の圧力を受けアヴィニョンを追われることになります。教職にあったファーブルは,その間一度の昇進も昇給もなく貧困でした。正規の教育を受けていない独学の徒であったことが大きいと思われます。生活費に苦心する彼を見かねて多くの友人たちは援助の手を差し伸べ,ファーブル自身も教科書の執筆,青少年のための昆虫学や総合教育のシリーズ本を書きました。これらの作品の評判が良かったのは,科学的であるとともに文学的な要素を持っていたからです。1877年に昆虫や植物に強い関心を持っていた16歳の次男ジュールに先立たれます。

1879年,オランジュ郊外のセリニャンの村はずれのアルマス移り住んだころ「昆虫記」の第一巻が出版されます。1885年に妻マリーを病気で失い,1887年に64歳で23歳のファーブル家の家政婦であったジョゼフィーヌ・ドーテルと再婚します。周囲からはあまり祝福されなかったようですが,その後,3人の子に恵まれ,家族は8人の大所帯となります。セリニャン移住後,“貧乏だったころの噂話”から各地から義援金が送られるようになり,さらに 1910年,フランス大統領レーモン・ポアンカレによって,年金とレジオンドヌール勲章を与えられました。1912年,ジョゼフィーヌにも先立たれ,1914年に第一次世界大戦が勃発すると末息子のポールは軍人に取られました。1915年5月,既に歩行もままならなくなっていたファーブルは担架に乗せられて,アルマスの庭を一巡りしたのがフィールドに出た最後になり,10月に老衰と尿毒症のため91歳で亡くなりました。

アヴィニョンを経てセリニアンと転居し,その間に行ってきた様々な昆虫の観察をまとめて発表したのが「昆虫記」です。「昆虫記」が学術論文ではなく読み物の形で出されたため,ノーベル文学賞の候補に上がるなど文学者としては評価されましたが,博物学者としての彼の業績はフランスではあまり理解されませんでした。なお,日本,韓国,中国,ロシアなどではファーブルの『昆虫記』の子供用の本も発行されていて彼の名はよく知られていますが,フランス,ドイツ,英米などではそういった本はなく,彼の名はそれほどよく知られていないそうです。日本語では「アンリ・ファーブル」と呼ばれます。

 オランジュの北 6km,ブドウ畑に囲まれた小さなセリニャン村(図1)の外れにファーブルが晩年まで住んでいたアルマス(図2)というところがあります。そこにあるファーブル記念館を訪れました。高い石塀に囲まれた庭には,当時のままのものも多く,ファーブルの観測装置(図5)などや噴水(図6)もあります。室内にはファーブルの採集した?昆虫や貝・化石・植物標本など幅広い内容の資料が展示してありました(図3・図4)。2階の彼の部屋へ上がる階段にも,非常に多くのアンモナイトなどの化石が置かれています。あまり整理はされていないなという印象を受けました。東方にはフィールドにもなったプロバンス最高峰のヴァントゥー山(1912m)の白い石灰岩からなる姿が遠望できました。

図1 セリニャン近郊の地図  (奥本。2005)
図2 アルマス   (津田,2007に加色)

アルマスは荒れ地という意味だそうです食堂・母屋と書かれたところから入室します。

 

図3 展示室 ファーブル愛用の机があります
図4 展示室 多くの貝類や化石が展示されています

図5 ファーブルの観察装置
図6 庭にある噴水
図7 ファーブル (左端)          (購入した絵葉書から)

ファーブルとパスツールの出会い

少し時代をさかのぼって,ファーブルとパスツールの出会いの時の話です。1865年,化学者ジャン・バチスト・デュマの助言で,昆虫学に関して意見を求めるために,パスツールがファーブルを訪れました。この頃,フランスでは養蚕産業が繁栄していたのですが,病気によりたくさんのカイコが死んでいました。病気のカイコには黒い小さな斑点があることから,ペブリン(pebrine)病とか胡椒病と呼ばれ,1849年頃から被害は広がっていました。パスツールは昆虫の生殖に関しては全く知識がなく,カイコガについての知識ももちろん皆無でした。パスツールはマユの中に(さなぎ)があることをこのとき初めて知ったくらいなので,ファーブルはたいそう驚いたと記しています。その時に裕福な家庭のパスツールが貧困生活をしていたファーブルの生活を理解しない(悪意はなかったでしょうが)発言をしたことをファーブルはあまり良い印象を持たなかったようです。
 けれどもその後,パスツールは微粒子病がカイコの卵へのノゼマ (Nosema apis) と呼ばれる原生生物(微胞子虫)の感染であることをつきとめますので,優秀な人物であったと思います。              

パスツール Louis Pasteur

 ルイ・パスツールは1822年フランス東部のドールで生まれました。パスツールは高等師範学校(エコール・ノルマル)卒業後,酒石酸*の旋光性に興味をもち,1848年に光学異性体の現象を発見し,酒石酸のラセミ酸の合成に成功します。1856年,ワインの製造の途中でアルコールが変質する問題の原因究明の依頼を受け,そこで発酵の過程で溶液の光学的な活性が現れることを発見します。

※酒石酸(Tartaric acid)は特に葡萄,ワインに多く含まれる有機化合物で,ワインの樽にたまる沈殿(酒石tartar)から,カリウム塩(酒石酸水素カリウム)として発見されたことから名づけられました。酒石酸は食品添加物としての使用が認められています。旋光とは物質中を直線偏光(光の振動面が一平面内にある偏光)が通るときにその振動面がある方向に回転する現象です。

1857年パスツールは,微生物学の原点と言われる「乳酸発酵に関する報告(Memoire sur la fermentation appelee lactique. (Extrait par l’auteur). C. R. Acad. Sci. 45, 913–916.)」という短い論文を発表します。そして,ビール発酵やワイン発酵などに働く酵母が自然に発生するものでなく,増殖する微生物であるという「微生物原因説」を発表します。酵母や乳酸菌と発酵の関係を突き止めたことによって近代微生物学が始まりました。当時は微生物が空気のない環境でも自然に発生するという「自然発生説」が信じられていましたが,パスツールはガラスの形を工夫した有名な白鳥の首型フラスコ(図8・図9)を用いて実験を行い,1861年に自然発生説が誤っていることを証明しました。発酵の研究の過程で低温殺菌法(パスチャライゼーション)も開発しました。

パスツールは3人の子どもを病気で亡くしています。子どものうち2人は腸チフスでした。さらに1868年には自身が脳出血に倒れ半身不随となります。
 医学の心得を持たないパスツールに多くの医学者から批判が寄せられましたが,次第に支持を受けるようになります。1877年,家畜の炭疽病(たんそびょう)やニワトリのコレラの研究から細菌を弱毒化して,それらの動物に接種すると免疫を獲得することを発見しました。1879年,パスツールはたまたま放置していた家禽コレラ菌の毒力が低下することを見出し,弱毒ワクチンを開発しました。ジェンナーの種痘は自然界に存在していた牛痘(実際にはワクチニアウイルス)を用いたものですが,家禽コレラワクチンは,人為的に開発した初のワクチンです。パスツールはジェンナーに敬意を表して「ワクチネーション(ワクチン接種)」という用語を用いました。1881年には弱毒化した炭疽菌を使った大規模実験を行いワクチンを発明しています。
 ※家禽(かきん)とは、ニワトリやアヒル,ガチョウなど,その肉・卵・羽毛などを利用するために飼育する鳥
 ※ワクチン:語源はラテン語のVariolae vaccinae(牛痘)です。1798年にエドワード・ジェンナーが,牛痘を人間に接種して天然痘を予防できることと実証したことに由来しています。VACCINAEの語源である「VACCA」がラテン語で雄牛を意味します。

1885年,ジョゼフ・マイスターという9歳の少年が狂犬病の治療を求めて彼のもとに連れてこられました。狂犬病のイヌのウイルスをウサギの脳に接種してつくるという動物実験の段階でしたが,強い反対意見押し切って,接種が行われマイスターは発病することはありませんでした。その後も各地から狂犬にかまれた患者が運び込まれ,その治療に成功し,パスツールの名前は世界中で有名になりました。1886年「民間による寄付と国際的な基金によって運営する研究所をつくってほしい」という趣旨で送られてきた寄付を受け,パスツール研究所がつくられます。翌年,政府も公益団体の研究所として認可し,1888年カルノー大統領も出席して開所式が行われたました。1887年以後,体調が衰えてきたパスツールに代わって,エミール・ルー(ジフテリア抗毒素血清の開発など)が研究所の企画・運営の中心になります。パスツールとコッホはライバルとして張り合う場面も多かったのですが,1895年のパスツールの死後,年齢が若いルーとメチニコフという指導者に替わり,民間人の研究スタッフが増えたことで,コッホの伝染病研究所との間で協調関係が生まれました。
 奥さんのマリー・パスツールMarie Pasteurはルイ・パスツールの助手であり同僚でした。ストラスブールアカデミーの学長の娘の一人で,1849年に23歳でパスツールと結婚しました。マリーはパスツールの研究には欠くべからざる女性でした。1910年,84歳で亡くなり,ルイ・パスツールと同じパスツール研究所地下の霊安室(墓)に埋葬されました。

パスツール研究所 Institut Pasteur を訪ねたことがあります。ここは,生物学・医学研究を行う非営利民間研究機関で,1887 年に開設されました。主要な研究分野は,ウイルス学,細菌学,寄生虫学,免疫学,分子生物学,神経生物学など多岐にわたります。研究所内にあるパスツール博物館はパスツールが晩年を過ごした住居です。居室やそこに飾られている絵画(図10)などが見学できました。“科学的記憶の部屋”では,有名な「白鳥の首フラスコ」などの実験器具や装置が展示されています。また,研究所の地下にあるパスツールの墓(霊安室)では,中央に立派な棺が置かれ,部屋の周囲の壁には彼の業績が描かれています。色鮮やかなモザイク画にはウサギや犬などの使用した実験動物も描かれていました(図11)。また,かつてここで研究されていたK.T.さん(在仏)を知人に紹介していただき,彼女のご助力で,短時間でしたが,別棟の細胞遺伝学の研究室も案内・見学させていただきました。研究棟は一般に開放されていないので貴重な経験ができたと思います。博物館,研究室ともに写真撮影が禁止されているのが残念でした。

図8 白鳥の首フラスコ
図9 白鳥の首フラスコ
図10 研究をしているルイ・パスツールの肖像画
図11 パスツールの霊安室
   私が訪れたときはもっと暗い部屋でした
            (WEBサイトから借用しました)
図12 パスツールン顕微鏡

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