パリ自然史博物館
パリ自然史博物館はアメリカのスミソニアン博物館,イギリスの大英自然史博物館に次ぐ膨大な量の生物・古生物・鉱物標本を所蔵する世界三大博物館の1つです。私は3つとも見学したことがありますが,それぞれ特徴があって興味深く感じています。
パリ自然史博物館はパリ市内のノートルダム大聖堂にほど近いセーヌ川左岸にあり,googleなどではパリ植物園と表示されています。ルイ 13 世が1635年に創設した「王立薬草園」が始まりでしたが,植物学者ビュフォンが園長になり,王の庭園から研究機関,博物館となりました。フランス革命の混乱の中,1793 年に国民公会によって自然史博物館として正式に発足しました。19 世紀初めにキュビエが現れ,比較解剖学を発展させ,進化論に反対して天変地異説を主張しました。パリ植物園内(図1)には,「進化大陳列館」・「鉱物学地質学館」(改装中でした)・「比較形態古生物館」・「植物園」・「昆虫館」・「植物園付属動物園」などが立ち並んでいます。進化大陳列館(Grande Galerie de l’évolution)は1994年に建物の外観はそのまま内部を改装したもので,多くの動物の剥製標本や現生生物の骨格標本が所狭しと展示してあります。ただ,中は暗くした展示のため写真は撮りにくかったです(図2は明るさの補正をしてあります)。比較形態古生物館は入口にキュビエの肖像が置かれています(図4)。一階は脊椎動物の骨格標本が,2階は恐竜やゾウのなどの脊椎動物の化石標本(図3),3階は貝や昆虫などの無脊椎動物化石が並びます。メガネウラ・モイニー*の完模式標本があると聞いていましたが,見つけられなかったのが残念です。
そのほかにも植物園内のところどころに珪化木などの大きな化石や岩石鉱物標本が屋外展示されていました(図6)。
図2 進化大陳列館 現生生物の剥製標本
図3 恐竜等の化石展示
※メガネウラ・モイニー Meganeura monyi:30cm以上の長い翅をもつ巨大なトンボで有名な化石です。フランス中部のアリエ県コマントリの石炭紀グゼリアン期の炭層で発見され,Brongniart 1885 で新属がつくられました。
何の足?
さて,見出しの写真(図8・9)は比較形態古生物館で見たものです。全体として細長い骨格と不完全な脚はひょっとして蛇のものではないかと思い撮った写真です。特に説明もなくフランス語は読めませんので正体は不明です。ご存じの方はお教えください。
次はラマルクとキュビエという,この博物館にかかわる二人の生物学・古生物学の研究者の話です。
ラマルク
ジャン=バティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck)は1744年,フランス北部で“貧乏貴族”の11人目の子どもとして生まれました。神学校に入学したあと,軍人となり七年戦争*に参戦して活躍しました。しかし軍人として昇進するためには身分の制限があったことなどから軍をやめ,その後,パリで博物学(特に植物学)や医学を学びました。1778年に「フランス植物誌」を出版して有名になり,王立植物園の園長ビュフォンにも名を知られることになりました。ビュフォンの死後,1788年に王立植物園で標本を管理する職(腊葉室)に就きましたが,経済的には苦しい生活が続いていました。翌年にはフランス革命が起き,その後の混乱で一層生活は厳しくなりました。1793年には国立自然史博物館に移り昆虫などの無脊椎動物を中心に研究しました。
※七年戦争: 1756年~1763年にかけてプロイセンと、オーストリアの争いで 植民地も巻き込んだ最初の世界大戦とも呼ばれる戦争。フランスはオーストリアに味方しました。
1801年に『無脊椎動物の体系』を発刊し「自然分類」の考えで無脊椎動物の分類を行いました。研究の中で「単純な生物が少しづつ複雑な生物に変わっていった」という生物の変化(進化)に気づき,生物の進化を説いた最初の人になりました。進化論はチャールズ・ダーウィンが有名ですが,ダーウィンの『種の起源』(図10)発表の50年も前の1809年に『動物哲学』でラマルクは自論を展開しました。「無脊椎動物」という言葉も彼がつくりました。生物学という言葉を初めて使ったのもラマルクだとされています。ただし彼のいう進化論は「ある一つの種の変化」で基本は「生物は自然発生した」という考えです。「用不用説」なども提案しました。しかし,種が独立していない(変化によって別の種が生まれる)という考えは,創造主が種を別々に創ったという創造説を否定することになり,当時の保守的な勢力から激しく攻撃されました。そのためラマルクは,創造説を支持するキュビエやナポレオン1世と対立し,さまざまな悪意ある仕打ちを受けます。「動物哲学」の著作もナポレオンに無視された逸話が残っています。とくに,当時のフランスの科学界で絶大な力を持っていた博物学者,ジョルジュ・キュビエ(1769〜1832)に嫌われたのが大きかったようで,ラマルクは自分の生物進化の考えをほとんど誰にも認めてもらえませんでした。ただ,イギリスの有名な地質学者のチャールズ・ライエル(1797〜1875)は,ラマルクの考えに影響されたことが知られています。ライエルは生物学全般に興味をもち,地質学や気象学にも興味があったことが進化論を形成するうえで大きな役割を果たしたようです。
妻や男の子たちは次々と病気で死に,あとには二人の娘しか残らず,そのうえ、70才頃から目が悪くなり,しまいには完全に見えなくなってしまうという不幸が続きました。 人とのつきあいが下手で,誰からも自分の考えを認められず,孤独で盲目の年老いた父親を慰め,研究の手伝いをしたのは娘ロザリーとコルネリーでした。ロザリーは生涯,最後まで父の世話をしました。1825年冬,ラマルクは85歳で生涯を閉じます。貧困のため,パリのモンパルナスにある共同墓地に葬られました。パリ植物園の入り口にはラマルクの像があります。その台座の背面には、ラマルクとその娘であるコルネリーのレリーフがあり,コルネリーがラマルクに言った言葉が刻まれています。「後の世の人が称賛してくれますわ,恨みを晴らしてくれますとも,お父さま」(図11・12)
ジョルジュ・キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier)
ラマルクよりも25歳も若いキュヴィエは,1769年退役将校の息子として生まれました。比較解剖学に興味を抱き,伯爵家の家庭教師をしながら海産動物を研究しました。ナポレオン一世にもかわいがられ自然史博物館の解剖学教授(1795),コレージュ・ド・フランス(国立の特別高等教育機関で教授に選任されることはフランスの当該領域における最高の権威として位置づけられます)の自然史教授(1800),パリ植物園の解剖学教授(1802)を歴任しました。ブロンニャール(フランスの地質学者,パリ自然史博物館教授)とパリ盆地周辺の化石層序を初めて明らかにし(1811),また,化石脊椎動物を現生動物と比較して記載分類し,比較解剖学を通して古生物学の基礎を確立しました(1812)。急激な天変地異によって古い生物が絶滅し新しい生物が出現するという激変説(天変地異説)を提唱したことでも有名です。ライエルやラマルクなどはこの考えに反対しています。フランス学士院会員,パリ大学総長のほか,視学官,国会議員,男爵,内務大臣などになるというエリート街道を進みました。事実を吸収し分析する才能をもつ,実証主義的傾向を代表する研究者です。『動物の自然史基礎編』(1798),『現存および化石のゾウ種についての覚書』(1800)『比較解剖学教程』(1800)などの著書も出版しました。1821年「早まった声明」といわれる「大型哺乳動物の新種発見はもはや有り得ないだろう」と述べたことも知られています(実際には,その後,アカカンガルー,ジャイアントパンダなど多くのものが見つかっています)。ナポレオンの没落後も順調に出世を重ねましたが,1832年コレラで亡くなりました。
彼は比較解剖学に基づき,現在の動物の分類を行い,また化石との比較から古生物学を大きく推し進めました。彼は動物の体はその各部分が機能に結びついた構造を持ち,それらが互いに関連して,統一的な仕組みをもつ(相関の原則:キュビエの原則)と考え,器官や骨のひとつからもその動物の全体像がわかると言っています。哺乳類に関係する古生物学分野は,本質的にキュヴィエにより作られ確立されたといわれます。前述したように,ラマルクの進化論に強く反対したことでも知られており,いわゆる「天変地異説」を唱え,進化によって生物の変化することを認めませんでした。
彼の名のついたものに「キュビエ器官」があります。 ナマコに特有の器官で,敵に襲われたり刺激を受けたりすると肛門から内蔵を吐き出します。そして魚のエラなどに絡みついて呼吸を止めます。ただ,日本国内で見られるナマコから出すものは純粋な内蔵(キュビエ器官ではない)で,南の海などに棲む食用以外のなまこが吐き出すものがキュビエ器官だそうです。その効果は同じです。
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