江戸時代の東海道は名古屋の街には入らずに熱田宿から渡船で桑名宿に渡ったことはよく知られています。これを七里の渡しと呼びますが,満潮時と干潮時ではコースが異なり必ずしも七里ではなかったようです(図1)。熱田宿(宮宿)側の港は現在の堀川と新堀川の交わるあたりにあり(図2),現在は時の鐘も復元されています。桑名側は桑名城のすぐ北側付近にあったようです(図3・図4)。図3の城のようなものは蟠龍*櫓(戊辰戦争で焼失)を復元したもので,中では蟠龍の模型(図5)や隠居後の松平定信の肖像画(複製:図6)などが見学できます。

(木曽川文化研究会,2004を改)

少し古い写真で,現在は近くに時の鐘が復元されています。




七里の渡し跡には,六華苑と共用の無料駐車場を使うとよいと思います。
六華苑は二代諸戸清六という人が建てた建造物です。諸戸家は江戸時代は加路戸新田(三重県桑名郡木曽岬町)を開拓した旧家で大地主(庄屋)だったようです。初代諸戸清六も有名な人物です。
以前,初代諸戸清六にゆかりの水道施設を見学したことがあります。まず,その紹介です。
父の代に商売の失敗で身代をつぶしましたが,初代諸戸清六は借金返済に奮闘し米穀仲買人となり,明治維新を機会に事業を拡大し政府要人や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎などの信頼を得ていきます。明治17年に現在の諸戸氏庭園(六華苑の南に隣接した場所)に屋敷を建てます。現在も春と秋には開放されるようですが今回はその時期ではありませんでした。彼の業績として特筆されるのは独力での桑名市の水道建設(諸戸水道と呼ばれ,1904年竣工)です。以前にその貯水池遺構を見に行ったことがあります。桑名市は揖斐川河口の低湿地で地下水に海水が混じるなど水質はよくありませんでした。初代諸戸清六は私財を投じて桑名市内に水道を敷設します(図7)。現在は桑名高校南東(桑名市東方1515)で貯水池遺構が見られます(図8)。水源の井戸は貯水池の東方約80mにあり,貯水池より低い標高に位置しています。


東西約13.4m,南北約23.2mの矩形で深さが約3.6mあります。
二代目諸戸清六(1888-1969)は,初代の四男で大正・昭和時代の資産家,実業家(諸戸殖産社長など)で,多くの政治家とも交友があったようです。新居として大正の初めに建てたのが六華苑です。18,000m2の敷地には洋館と和館,池泉回遊式日本庭園,長屋門,蔵などが建てられています。明治時代には洋風建築に和館を併設することが多かったようですが,これほど大規模な和風建築を配置した邸宅は珍しいそうです。洋館はイギリス人建築家のJ.コンドルの作品です。4階建ての塔屋からは揖斐川が望めるそうです(公開されていません)。ベランダのサンルームは暖かな気持ちの良いスペースでした。また,各部屋には暖炉があったのも印象的です。






海蔵寺
桑名城から八開通を西に歩いていくと海蔵寺という寺があります。ここに宝暦治水で知られる薩摩藩士24名の墓があります。
中央の大きな墓が工事後切腹した家老の平田靱負の墓で,それを取り囲むように23名の墓が並んでいます。伊勢湾台風時に埋められた墓が露出し,再埋葬されたものです。



コメント